仏像の魅力

仏像の魅力-仏師達の想い

仏像の魅力の世界へ

仏像の魅力-仏師達の想い

仏像の魅力近世までいつ果てるともなく続いてきた、戦乱や疫病と飢饉等々です。
人々は心の拠り所を必要としたが、仏教が伝来しても、肝心の経典に書かれた文字を読めるのは貴族や高僧など一部の特権階級だけで、大半の民衆には縁遠いものでしたです。
お経が読めない人間でも、ひと目見ただけで御仏の慈悲や有難さが五臓六腑に伝わってくるものを作ろうです。
それが仏像をつくるきっかけだと思います。
しかし、仏像の魅力は御仏(みほとけ)の慈愛を体感出来ることだけではなさそうですね。
仏教の思想性や彫刻としての芸術的価値よりも、むしろ仏像を彫り上げた仏師たちの“優しさ”に触れられる感動の方が大きいです。

仏師たちは「何とかすさんだ人の心に平穏を取り戻せれば」そう思って、ひと彫り、ひと彫り、祈りを込めてノミを刻み、土をこねたことでしょう。
彼らにとって、自分が納得出来ぬ仏像を世に送ることは仏への冒涜になったので、満足のいく仏像を完成させるべく、自己の存在理由をかけ、全身全霊を込めてノミや木づちを手にとったのです。

傷つき疲れた魂の救済に、真摯、かつ、懸命に挑んだ名も無き優しい仏師たちです。
そして、仏師が彫った仏に救われ、火事や洪水から千年以上も仏像を守り継いできた、数え切れないほど多くの人々です。

国外の美術研究者は千年前の木製彫刻がこれほど大量に火災を逃れて現存していることに驚きを隠さなさそうですね。

こんなにも熱い思いが込められた仏像を、「興味が無い」だけで済ませるわけにはいけませんね。

仏師達の想いを今に伝える。-仏像の魅力の世界へ。-


仏像の姿-釈尊(仏陀・ブッダ)の姿

仏教の真髄-信仰の像

信仰の神髄 人間の姿で表わすにはいったい誰を参考とすべきかといことですが、それはなんといっても釈尊(仏陀・ブッダ)の姿ということになります。

幸い如来の三十二相・八十種好が伝わっています。

その姿態をもとにして、仏の姿をすべて人格化表現することにしました。

これがこんにち我々が見ている仏像なのですが、紀元一世紀頃に作られたと言われています。

仏の世界にはいろいろの仏がいます。

○阿弥陀如来や薬師如来、大日如来という如来のグループ。

○十一面観音菩薩、千手観音菩薩、地蔵菩薩という菩薩のグループ。

○不動明王、愛染明王という明王のグループ。

○四天王や十二神将、仁王という天部のグループ。

とこの四つのグループにわけられます。

この仏たちにそれぞれ釈尊(仏陀・ブッダ)の姿をモデルとして取り入れたのです。

芸術作品であれば、作者(作家)が自分の考えによって、自分の個性を生かして自由に表現していいわけですが、仏像はお寺にまつり、信仰の対象として多くの信者たちが拝むわけですから、これは作者(作家)の意図だけではいけないというものがあります。

仏教のいわば真髄というものがそこに表現されていなければ信仰の像とはならないだと思います。

仏教の真髄とは

仏教の神髄-慈悲

仏教の神髄 仏教の真髄とは何でしょうか。

それは慈悲だといわれています。

キリスト教では愛だといわれています。

慈悲も愛も、ともに人が人を愛するという点では同じですが、愛だけだと、例えば、「私は死ぬほど彼氏が好きだといっても、裏切られるとたちまち憎しみにかわり、殺してやろう。」というふうに変わることがありますね。

しかし慈悲の方は、親子の愛情なのです。

親が子に対する愛情です。

例えば、子供に裏切られても、親はやはりその子がかわいい。

この徹底した愛のを慈悲の愛と呼んでいます。

この慈悲を作品のどこかに表現しておかないと信仰の対象にならないのです。





慈悲を形にする

仏像は、厳しさと優しさを表現

慈悲の表現 慈悲を形にするとどういうものになるのでしょうか。

 満員電車の中で、自分の赤ん坊をだっこしている人がいたとします。
もうほおずりしたいほどかわいいのですが、他に乗客がいるので、素知らぬ顔をして抱いています。
ところが、もし電車が急停車しても、絶対その子は落さないという抱き方をしているのです。
例えば、足の踏んばり、肘のかまえ、指先の形、すべてにその子をかわいいという一心の姿があります。
これが慈悲の形になるのです。


また我々の指先というのは、物をひっかいたり、つかんだりするために指先に力がはいるようになっています。
しかし、こういう指先で、柔らかくて軽い赤ん坊をつかんではいけないのです。
指先はあくまで柔らかくふっくらしたスポンジのような感じで、その赤ん坊を抱きかかえる。
このように、指先にも慈悲の形があるのです。

 この慈悲をもう少し分類すると、慈とは、お父さんのように厳しい。
悲とは、お母さんのように優しい。


つまり仏像には、厳しさと優しさの表現がなければならないといわれています。
そして、如来、菩薩、明王、天部という、大きく分類できる仏たちに、この慈悲の表現の役割が決められているのです。



仏にはいろいろ異なった法力があります。


表現するために、服装とか、指先を動かしていろいろその法力を示す印相というのがあり、また蓮台(蓮華座)に乗るもの、車座に乗るものなど、台座の形も定められ、このように仏にはそれぞれの法力にふさわしい形が決められているのです。


これらのことは経典から僧たちが学び、仏師たちに教え、その弟子たちへと伝えられました。

この伝えを記録したものを儀軌(ぎぎ)といいます。

この儀軌をまちがえては仏の法力が発揮されないとまでいわれるほど大切なものとなっています。



 それでは三十二相・八十種好というようなことがいつ頃言われだしたかといいますと、『仏教語大辞典』によってみますと、様々な経文の中に三十二相・八十種好のようなものがでてきます。

それが全部一つにまとまっているということでなく、あちこちにばらばらに書かれています。
それを後に三十二相と八十種好に整理したと考えられています。


お釈迦さまは尊い姿をしておられるというので、足元から見上げて行くように書かれています。

ですから真っ先に足の裏がどのようになっているか、そこからはじまっています。

しかも順序よく足から頭のまで順序よく書かれていれば良いのですが、実はそれがばらばらに記載されています。

その理由は、お釈迦様が亡くなってから阿羅漢たちが、お釈迦様の姿はこうでお顔はこんなだったというようなことを言い争いました。

その場になっていて、しかもあとからまた、こうでもあったと付け加えているのです。

それで全体的に統一されていないのだと思います。

奈良の仏達