阿修羅とお釈迦様
お釈迦様と阿修羅の表情
今から約二千五百年前、お釈迦さんが悟りを開き、仏教として大衆の教化に当たられました。
その頃、六沙門という六つの大きな教団と、さらに小さな教団が五百以上あったといわれています。
これらは紀元前、中央アジアから侵入してきたアーリア民族のもたらしたバラモン教に対する反発から、一種の宗教改革運動が起こり、それが新興宗教的な教団となって続出したのです。
その中の一教団が仏教でもあるのですが、この仏教によってバラモン教は完全につぶれました。
また六沙門も、そのうちジャイナ教だけは今日に続いていますが、残りはつぶれ、さらに小さな教団は、すべて仏教に加入しましたので、お釈迦さんの名声は全インドに広まったのです。
この頃の物語ですが、仏さまがおられる須弥山下の大海底に住むという阿修羅がいました。
彼は元来、インド固有の善神でしたが、後に太陽や月、インドラ神(帝釈天)と戦いましたので悪神とされました。
このような悪の神々が他にも沢山いました。
その悪神たちにとっては、お釈迦さんが悟りを開き、仏陀になられ、平和な社会をつくられては困るのです。
あくまでその行に、邪魔をせねばなりません。
しかしお釈迦さんは、六年間の苦行によってこれらを降魔して悟られました。
こうなりますと次は、お釈迦さんの説法を大衆に聞かせないようにせねばなりません。
そこで阿修羅は、お釈迦さんの話し中に、大衆が感激しそうなところで騒ぎ立てようと、その頃をうかがいながら耳を傾けました。
ところが、いつのまにかその説法に聞き入ってしまい、自分の役目を忘れて大衆と一緒になってしまったのです。
しかし他の悪神たちは、約束通りに良い頃で騒ぎ出しました。
それを聞いた阿修羅は、我を忘れ仲間に向かって「だまれ、うるさい、出ていけ」と追い払い、進んでお釈迦さんのそばに近づき、心静かに説法を聞きました。
その時の顔は、あどけない童子のように、晴々とりりしく、しかも本来の闘争心は皆無となって、ひたすら仏法を聞くよろこびに浸るのでした。
この表情が興福寺の阿修羅像の表情になっているのではないでしょうか。
仏教の教えと阿修羅王
仏教と阿修羅
“阿修羅”については、諸説ありますが、「阿修羅」という言葉は仏教を知らない人でも、よく耳にします。
阿修羅という言葉の「修羅」は、「修羅場」とも言われるように、闘争や地獄など陰をイメージしますね。
仏教では、私たちの永遠の生命は、6つの迷いの世界を経巡っていると教えられます。
これを六道(六界)と言います。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の6つの迷いの世界です。
この中の修羅界は、闘争の絶えない世界として教えられています。
現在、人間界に生を受け、人間として生きている私たちですが、人間界以外の、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、天上界、いずれの世界にもいたことがあるそうです。
しかも、地獄界、餓鬼界、畜生界は、6つの迷いの世界の中でも特に苦しみが激しく、三悪道と言われています。
その中でも地獄界は、最も苦しみの激しい世界であり、その世界での寿命は八万劫年と言われています。
一劫が、4億3千2百万年ですから、八万劫は、実にその八万倍という気の遠くなる長さを過ごさないといけないことになります。
ある時、弟子のひとりがお釈迦様に「地獄の苦しみについて」に尋ねたところ、
お釈迦さまは、「どんな言葉を使っても説くことは出来ない」と答られました。
「それでは例えなりでも」と弟子が言うので、お釈迦さまは、次のような例えをされました。
「朝と昼と夜の3度、それぞれ100本の槍で突かれるのだ。その苦しみを何と思うか」と尋ねられました。
「わずか一本の槍で突かれてさえどんなに苦しいだろうに、一日300本で突かれる苦しみは想像も及びません」
と弟子が答えると
お釈迦さまは、小さな石を拾われて、
「この石と向こうのヒマラヤ山と、どちらが大きいか」と弟子に尋ねました。
「それはそれは、とても比較にはなりません。大変な違いでございます」と弟子が答えると
「毎日、300本の槍で突かれる苦しみをこの石だとすれば、地獄の苦しみはあのヒマラヤ山の如し」と教えられています。
「地獄」とは、自分の業(行為)が生み出す実在の世界なのだと、仏智を体得されたお釈迦さまは、説かれています。
「地獄に堕ちる」というのは、「結果」ですが、そのような結果を引き起こす「原因」が必ずあり、それは己自身にある、と仏教では教えられます。
仏教では自分自身に真暗な心を「無明(むみょう)の闇」と教えられ、すべての人が抱えている闇の心のことです。
親鸞聖人は、無明の闇が破られ、自分自身の本当の姿を知らされて、「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
(『歎異抄』第二章)
いずれの善行もできぬ親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである、とおっしゃっています。
人間の本当の姿とは、いかなる姿なのでしょうか?
これは仏教という法の鏡によって見えてくるといわれています。
鏡に近づけば近づくほど自分の姿が見えてくるように、仏教を聞いていくと知らされてくるのが本当の自分の姿でしょうね。
一般的には、サンスクリットのアスラ(asura)は歴史言語学的に正確にアヴェスター語のアフラ(ahura)に対応し、おそらくインド-イラン時代にまでさかのぼる古い神格であると考えられている。
宗教学的にも、ヴェーダ文献においてアスラの長であるとされたヴァルナとミトラは諸側面においてゾロアスター教のアフラ・マズダーとミスラに対応し、インド・ヨーロッパ比較神話学的な観点では第一機能(司法的・宗教的主権)に対応すると考えられている。
アスラは今でこそ悪魔や魔神であるという位置づけだが、より古いヴェーダ時代においては、インドラらと対立する悪魔であるとされるよりは最高神的な位置づけであることのほうが多かったことに注意する必要がある。
ただし、阿修羅の起源は古代メソポタミア文明のシュメール、アッシリア、ペルシア文明とする説がある。
シュメールやアッカドのパンテオンに祀られていた神アンシャル。
アッシリアの最高神アッシュル。
ペルシアのゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー。
それらの神がインドに伝来してアスラとなり、中国で阿修羅の音訳を当てた。
阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも音写する。
シュメール、アッシリアの古代史と仏教の阿修羅にまつわる伝承との類似性も高く、信憑性のある事実として指摘される。
仏教伝承では、阿修羅は須弥山の北に住み、帝釈天と戦い続けた。
阿修羅は帝釈天に斃されて滅ぶが、何度でも蘇り永遠に帝釈天と戦い続ける、との記述がある。
これらの伝承を古代史になぞらえると、以下のようになる。
アッシュルを最高神と崇めたアッシリア帝国は、シュメール(現在のイラク周辺)の北部に一大帝国を築き、シュメール・アッカドの後に勃興したバビロニアに侵略戦争を繰り返した。
バビロニア人はメディア人と手を結びアッシリアを滅ぼしたが、国を再興したアッシリア人達にバビロニアは滅ぼされた。
後にてバビロニアの地にカルデアが勃興して、再びアッシリアを滅ぼした。
その後、アフラ・マズダーを崇めるペルシアが勃興して、カルデアを占領下におさめた。
その後、古代マケドニアがペルシアを滅ぼした。
また、シュメールと須弥山(サンスクリットでは「スメール」と発音する)の類似性。
シュメールの最高神マルドゥークと帝釈天インドラの類似性を指摘する説もあり、阿修羅と帝釈天の構図はアッシュルとマルドゥークの構図と全く同じであり、これらの古代史を仏教の伝承として取り込んだ可能性が高いと主張する神学者もいる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仏教と阿修羅像
仏教の流れの中の阿修羅像
日本に伝来している仏教には、現代まで続く四つの大きな流れがあります。
奈良仏教(南都六宗)、平安仏教(密教系)、鎌倉仏教(禅宗系)、その他の宗派(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗)です。
阿修羅像を擁する奈良の興福寺は唐招提寺や東大寺と並ぶ南都六宗の一つで、日本の仏教系列の中では最も古いグループに属します。
8世紀・平城京時代の仏教は鎌倉期以降の仏教と違って、民衆を信仰によって組織化するということはなく、朝廷・貴族の信仰の対象として教義の修養と仏像の造形美を追い求めていました。
従ってこの時期の仏像は、阿修羅像を含めて民衆の信仰の対象として造られたものではないようですね。
9世紀の平安期になると最澄・空海が唐から密教をもたらします。
最澄が天台宗(比叡山)を、空海が真言宗(高野山)を興し、特に真言宗は性愛の歓びを肯定・賛美する新興宗教として朝廷から支持を得ました。
密教は強大な力を誇り、後世の禅宗・浄土宗などのルーツとなると同時に、次第に自らも武装した政治的独立組織へと変化していきました。
やがて武士が勃興し、12世紀に鎌倉幕府が成立すると、武家社会が朝廷に対抗して、武家の仏教として禅宗が興ります。
中でも栄西が宋から伝えた臨済宗が幕府の仏教として重用されました。
そして、幕府が朝廷を牽制する為に敷いた「京都五山」はすべて臨済宗となっており、武家社会においても、鎌倉を頂点とする幕府の政体に武家が集結する体制の象徴として臨済宗が位置づけられました。
また、禅宗の興隆と軌を一にして、平安貴族の瀟洒な宮廷文化とは対照的な、建築では書院造り、庭園では枯山水など、精神性を尊ぶ能や茶の湯が急速に浸透したのもこの磁器になります。
一方、同じく禅宗である曹洞宗系寺院の一部は幕府の仏教戦略に組み込まれたが、総本山である永平寺・総持寺は幕府と一線を画し、地方武士や農民に浸透する道を選んで裾野を広げました。
このほか平安末期から鎌倉時代にかけて法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗が興り、次第に巨大勢力へと成長して行きました。
いずれも民衆の救済を標榜し、民衆に広く浸透を図る点で、それまでの南都六宗や密教系宗派とは全く異質であり、仏像の印象もかなり異なっています。
やがて応仁の乱を経て戦国時代が到来し、まず信長が覇権を確立します。
信長は旧体制と結びついて巨大な武装組織と化していた仏教宗派を警戒するあまり比叡山を焼き、キリシタンを是認しました。
秀吉も当初これを踏襲したが、キリシタン宣教師達の真の意図が欧州列強による日本の植民地化にある事に気付いて、弾圧に転じました。
家康もこれを踏襲しましたが、仏教政策に関しては、この時期主要な各宗派が既にそれぞれの基盤を強固に確立していたために、本願寺の東西分割など、特定宗派の突出を避けることに徹しています。
安定した徳川長期政権の下、仏教各宗派も共存共栄の時代を享受していきます。
仏教が庶民の生活の中に浸透した時期といえますね。
「阿修羅像」の特別公開 大人気奈良・興福寺